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一雨ごとに季節は動き、一泣きごとに成長する。

雨が降り出すと、東京の冬もいよいよ終わりを感じる。今年はまったく暖冬だったけれども、

それでも寒さの緩みを知り、湿り気を帯びた空気に春の気配を感じる。

 

雨もまた、春の訪れを告げる使者である。一雨ごとに季節が動く。手袋をしていると手の中が暑くなって汗ばむ。身が引き締まるような冷たい空気はもはや過去のものとなり、花壇に植えられたチューリップの芽がきれいに整列して顔を出している。

 

地球が太陽の周りを回っている限り、季節の進行は誰にもとめられない。季節は巡る。冬が終わり春が来て、夏になって秋に変わり、そしてまた冬を迎える。しかしその巡る季節でさえ同じであることは決してない。例年という言い方は、人間が安心したいがためにそう呼んでいるだけであって、同じ季節が二度と来ないことは誰もが知っている目をそむけられた事実である。

 

四歳の子を持つということは、父親をこれほどまでにセンチメンタルな気分にさせるものか。季節の移り変わりと子どもの成長を重ね合わせずにはいられない。最近息子はとてもよく大泣きをする。大粒の涙がつるつるのほっぺの上をころころと玉のようにいくつもいくつも転がっていく。それはまるで金と銀の粒のようにきらきら光りながら。

 

ぼくはその涙の粒を手のひらで受け止めてみて驚いた。涙の粒はそれ自体が光を放ち、金と銀に光っていた。指を曲げて影を作れば手の中がほんのりと明るく照らされた。金と銀の粒はじっとしていることができないらしく、手の上で縦横無尽に動き回りやがて手からこぼれて床に落ち、小さな残光を残して消えていった。

 

無防備に大泣きをする。それはまるで赤ちゃんであり、実際赤ちゃんなのだろう。

雨が降れば冬の揺り戻しのように寒さが戻る。それと同じように泣いているときは赤ちゃんに揺り戻る。雨の降った翌日は暖かくなり季節が一歩進む。それと同じように泣き止んだあとの息子の顔から幼児の色がまた一つまた一つと消えていく。

 

無邪気なイヤイヤ期が終わろうとしている。息子は少しずつロジックを獲得すると同時に因果律に矯正されていく。ムクドリは人間の幼子に歯が生え始めると激しく泣いたという。もうこれでこの子の聡明さはすっかり失われ、太陽と語りあうことも、風と戯れることも、このわたしと愉快なおしゃべりをすることさえできなくなってしまうんだわ、と。

 

幼児たちはこう言う。そんなわけないさ。ぼくらはいつだってこの先ずっとだってあんたとお話するよ、と。しかしムクドリは頭を振って目を閉じた。その言葉はもう毎年耳にたこができるほど聞いてきたからだ。そして例外なく、いやたった一人の例外を除いて、みんないなくなってしまうのだ。

そんなメアリーポピンズの一節が、ぼくのこころを捉えて離さない。そしてムクドリが流した涙の意味がぼくにもようやくわかった。

 

しかしぼくがムクドリと違うのは、息子に新しい聡明さを見出すことができる点にある。自然と一体であった時期は終わろうとしている。そして人間の時期がいよいよ始まるのだ。そうした時期の移行は季節の変化と同様にまた自然の一部でもある。なぞなぞ好きのスフィンクスは自分の出したなぞなぞに答えられないものを生かしておくことはなかったと聞く。朝は四足で、昼は二本足、夜は三本足これはなんだ?答えは言うまでもなく人間の人生である。身体能力としての昼間は一歳をすぎてすでに獲得した。そして今こころの二足歩行がいよいよ始まろうとしている。

 

自分の腕の中から離れていく息子に寂しさを覚え、ぼくの腕を押しのけて飛び出していこうとする息子の成長に喜びを感じる。こうした感情はおそらく今だけの特別なものだろう。この季節の変化を経て、息子が成長するとともにぼくもまた成長できるのかもしれない。