1995年。大学生になったぼくは一人暮らしという自由を手に入れたのと同時に貯金を叩いてオーデイオを揃えた。
アンプとCDプレーヤーとスピーカーだ。そのうちアンプは数年前に壊れて音が出なくなって買い替えた。本当は修理した
かったんだけれども、メーカーが修理期間を過ぎているといって送り返してきた。CDプレーヤーは本体のボタン類がバカに
なってしまったが、幸いリモコン操作は問題ないため現在も現役で使用している。
そしてこのスピーカーである。
26年使った今現在でも音が色褪せることがないばかりか、一番のお気に入りである。26年のあいだに様々なスピーカーの音を
聴いてきたが、このSX-V1以上にぼくを満足させるものには未だ出会っていない。願わくば死ぬまで使いたいスピーカーである。
SX-V1の音は優しい。どの帯域も出しゃばらないところがいい。14,5センチの小さいウーファーだが、音量を上げていっても
うるさくならずに豊かさを増すのは歪が少ないせいだろう。
このスピーカーは見た目が美しい。無垢のマホガニー材が箱にもスタンドにも使われていて、それがアンティーク家具
のようは風合いを醸し出している。樹脂浸透技術というのは伊達ではなくて、26年経った今でもソリや割れ、ヒビなどはまったく
ない。
現代は日本のオーディオ業界には厳しい時代である。このスピーカーを作ったビクターも今はあるんだかないんだか
わからない状態だし、オンキョーやパイオニアは消えていった。一斉を風靡した多くのメーカーが倒産した。
今残る電機メーカーの多くがオーディオをやめてしまった。
ぼくのようにひとつのものを長く使われてしまっては商売に困るだろう。買い替えてくれないからだ。
だけど、モノに対する態度としては、正しいとぼくは思う。壊れては修理し、本当に使えなくなるまで付き合う。
そうしたものには神が宿る。日本人の心に深く根ざした八百万の神とはそうしたものだったのではないか。
ぼくはものを買う前に考えるようになった。なぜそのものが欲しいのか。なぜそのものが魅力的に見えるのか。
もしかするとその理由が新しいからではないか。つまり新鮮なものとして目に映るからではないのか。
ぼくはその点をよくよく吟味する。目新しさや新鮮さがそのものの魅力ならば手にしてすぐに魅力は半減し、一年も
しないうちに飽きてしまうだろう。そういう買い物はもう興味がない。
26年前、そんなことはなにも考えずに買ったSX-V1であるが、26年経って今そんなことを考えさせてくれるようになった。